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西區の詳細情報
沿革

古代から解放後、
現代までの西区の沿革をお知らせします。

西区という名称は、解放後の1951年に区制の実施を前提に6つの出張所が設置されたが、 当時、中央洞に所在していた釜山市庁を基準として西側に位置するとして西部出張所が設置され、その後1957年にはじめて区制を変更し、西区が発足した。

素晴らしい山並みと青い海、一年中温和な気候、人情の厚い土地で、開港と共に近代的な市街地を形成し、釜山の行政、教育、法曹、水産業の中心地として発展した。

裁判所、学校などが他地域に移転してから都市機能が多少沈滞したが、最近、松島沿岸の整備、甘川港の開発、花村の総合開発で新しい活力を生み出しており、水産業と観光特化都市の緑が美しい快適な住居都市に変貌している。
西区が歩んできた道はどんな姿だったのだろうか?

古代(三韓時代)

古代(三韓時代)
- 辰韓、弁韓、馬韓のうち弁韓に所属、後に六伽耶が起きて金官伽耶の支配下に入る
- 居漆山国の領域に入る

三国時代~統一新羅時代

三国時代~統一新羅時代
6世紀初 新羅が居漆山国を併合することによって新羅の領域に編入、新羅智証王6年(AD.505)に居漆山郡に所属
景徳王16年(AD.757) 居漆山郡を東莱郡に改称、西区一帯は東莱郡の属県である東平県に所属
真聖女王6年(AD.892) 後三国時代に一時的に後百済甄萱の支配下に入る

高麗時代

高麗時代
太祖元年
(AD 918)
新羅の郡県制である9州5京のうち尚州、楊州、慶州を合わせて東南道という。西区地域は東南道に編入。全国を2京4都護府10道に改編、この時、嶺東道に所属
睿宗3年
(AD 1108)
嶺南道、嶺東道を統合して慶尚州道、晋陜州道に二分される。この時、慶尚州道に所属
恭愍王17年
(AD 1368)
釜山という地名を初めて使用

日本統治時代

日本統治時代
1910年10月01日 日韓併合後、従来の東莱府が釜山府に編入
1914年04月01日 機張郡の全部と梁山郡の一部が東莱郡に編入
1933年02月01日 釜山府制改定方面事務所設置(8つの方面)
西部第1方面(大新洞)、西部第2方面(峨嵋洞)、西部第3方面(南富民洞)、
中部第1方面(瀛州洞)、南部第1方面(瀛仙洞)、北部第1方面(草梁洞)
北部第2方面(水晶洞)、北部第3方面(凡一洞)
1936年04月01日 釜山府第1次行政区域拡張(84.14㎢-112.23㎢)、東莱郡に属していた西面と沙下岩南里を釜山府に編入
1942年10月01日 第2次行政区域拡張(112.23㎢-241.2㎢)東来邑の全部と沙下面を釜山府に編入、東莱出張所、水営出張所設置

解放後現代まで

1951~1970
1951.09.01西区出張所設置
1957.01.01釜山市の区制実施で西区設置(1出張所25洞)
1966.01.01 峨嵋洞が峨嵋1・2洞、槐亭1洞が槐亭1・2洞に分洞(27洞)
1971~1990
1975.10.01沙下出張所が市直轄出張所に昇格(西区管轄洞は18洞)
1978.02.15 釜山鎮区鶴章洞の一部が西大新4洞に編
1982.05.01 法定洞の名称変更(玩月洞1、2街が忠武洞2、3街に変更)
1988.04.16 地方自治制実施
1989.01.01 草場洞の一部が土城洞に編入
1991~2010
1991.04.15区議会開院
1995.06.27 民選区庁長が選出
1998.10.01 行政洞の廃合・統合(3洞、芙蓉、富民、土城、忠武、峨嵋1+峨嵋2、峨嵋)
2003.01.01 区庁舎の移転(西大新2街270番地西区庁1キル1(土城洞4街2-3))
2006.01.01行政洞の統廃合(西大新1洞+西大新2洞->西大新1洞)
2009.01.01 行政洞の統廃合(南富民2洞+南富民3洞->南富民2洞)